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F Lab.

LIFE IS A PARTY

意識は幻想なのか?自由意志の存在(とその否定)に対する、脳科学と哲学の論争のまとめ。

 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp

この記事が最近話題になっている。

自由意志は存在するのだろうか。簡単に言えば、「人間は、本当に自分の行動を自分の意志で自由に決定しているのだろうか」、という問いかけである。こういうことを考えたことが無い人は、自由意志はあるに決まってるんじゃないの、と思うかもしれないが、実は、そうではないかもしれないのである。

そもそも、上記記事の発端となるのは、1980年のリベットによる「運動準備電位」の研究である。リベットは、人間が腕を動かそうと意志し、腕が動くまでの過程を、電気的に測定した。その結果、

A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」

という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差があることが示された。リベットはこの実験により、BとCの間の0.2秒の間に、意識が運動を拒否する権利を持つと理解した。

このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされていることになる。そして、自由意志が唯一もつ権利として、BとCの間の0.2秒間の拒否権が示されている。冒頭のWIREDの記事で紹介されている実験では、リベットによって示されたBとCの間の「意識の拒否権」の実在が確かめられている。

しかし、この脳科学的実験の解釈は難しいところがある。BとCの間で自由意志は拒否権を持っているとリベットは解釈をしたが、その拒否でさえ、すでに無意識が決定したものが遅れてBとCの間で表れただけという可能性が十分あるからだ。このように解釈した場合、「自由意志はやっぱり何にも決定権を持っていないよね」という結論になってしまう。

後者の解釈のしかたは、受動意識仮説という考え方を徹底した場合のものである。受動意識仮説とは、人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。ぼく個人の意見としては、受動意識仮説はかなり直観に合う部分が多く、受動意識仮説を支持したいと考えている。

 

ここまでの部分は、自由意志論についての脳科学的アプローチである。

一方、自由意志というのは、生物学者よりも哲学者にとって非常に重大なテーマであり、哲学者によって長らく活発に議論されてきた。そして、哲学的論争の方がむしろ面白いとぼくは思っているので、今回の記事では、ぼくのできる範囲で、哲学における自由意志論について噛み砕いて紹介してみる。前提知識がなくても読めるよう極力配慮したので、付き合っていただければ幸いだ。

 

 

自由意志論とは

自由意志論とは、自由意志は存在するか否かを問う論議のこと。言い換えれば、人は自分の判断を主体的にコントールすることができるのか?という問いかけのことである。

 

 

自由意志は存在しない?

いまあなたはこの記事を読んでいる。この記事から離脱するかどうかは、あなたの自由だ。ふつうはそう考えるだろう。しかし、記事を読むか記事から離脱するかは、本当にあなたの意志で自由に選択できるのだろうか。あなたが記事を読み続けるかどうかは、自由意志によってではなく、物理的・化学的法則によって、あるいは自由意志を経ない無意識下の演算によって決定されているのではないだろうか。この問いは、何者でもないぼくのただの迷走的思考ではなくて、現に多くの哲学者を悩ませ続ける問題なのだ。

脳科学による挑戦状:「自由意志は存在しない」

冒頭で述べたことやその他の脳科学的な実験結果によって、「自由意志は存在しない」という立場は、ますます無視できない問題になってきている。

脳科学によると、脳はある一瞬における「内部的状態+外部の刺激」という入力に対し、ある計算を施して、その結果として、その次の瞬間における「内部的状態+外部環境への働きかけ」を出力している。脳をこのような計算機と考えれば、この計算は徹頭徹尾完成されており、自由意志がこの演算に入り込む余地はどこにもない。

これは、「メカニズム決定論」(戸田山和久「哲学入門)と呼ばれる決定論の一つだ。決定論とは、「世界はその前の瞬間の世界の状態のみによって決定される」というもの。ここで紹介した脳科学者による決定論は、脳のメカニズムから見た決定論なので、「メカニズム決定論」と呼ばれている。

哲学者の奮闘:「自由意志の復活」

脳科学による挑戦状は、かなり強力だ。しかし、自由意志の存在を認めないとなってしまうと、人の行動は彼自身の意識の制御下にないということをも意味しかねず、それでは責任や懲罰といった概念が揺らぎ始め、社会の倫理が崩壊する可能性がある。それゆえ、哲学者はどのようにして自由意志を復活させるか、あるいは社会の倫理を保つかということに頭を悩ませてきた。私の考えでは、哲学者は自由意志を復活させることに未だに成功していない

この記事では、哲学者たちの自由意志復活に向けた試みを紹介し、自分の考えについても軽く触れようと思う。

 

 

社会の倫理(責任)の復活

自由意志の前に、まずは、いかにして哲学者が責任という概念を復活させようと奮闘したかを書き記す。

出来事、反射、行為

まず、少し遠回りなようだが、出来事、反射(または反応)、行為という3分類について考えてみよう。次の5つの事象を、出来事、反射、行為に分けてみてほしい。

  1. 花びらが落ちること。
  2. アリが死ぬこと。
  3. アリが歩くこと。
  4. 人間のくしゃみ。
  5. 人間がジャンケンでグーを選ぶこと。

私の直観による分類では、1と2は出来事、3と4は反射、5は行為に分類される。それほどおかしな分類ではないと思う。もしかすると、3を行為と考える人も多いかもしれない。この相違はどこからくるのだろう。以下ではこの疑問に答えながら、私の考える出来事、反射、行為という3分類の境界線について説明する。

動物の神経系統の働きの有無

まずは、出来事と反射の違いについて。端的に言って、出来事と反射の違いというのは、その事象が動物の神経系統(主に脳)の働きを経て生まれたものかどうかによる。

花びらが落ちるのは、神経系統を経ていないので出来事。一方、アリが動くのは、何らかの刺激によってアリの神経系統から足に対して「動け」という命令が出されて動くのであり、こういうのを反射と呼ぶ。アリが死ぬのは、アリ自身の神経系統からの命令によるものではないので、反射ではなく出来事である。

意図の有無

次に、反射と行為の違いについて。これらの違いは、意図(=目的)の有無による。

くしゃみには目的はない*1一方、ジャンケンでグーを選ぶことには、「勝つ」という目的(=意図)がある。

先ほど、3の「アリが歩くこと」を私は反射に分類したが、これを行為と捉える人もいるかもしれないと述べた。この差異は、アリが歩くという事象に目的を見出すかどうかという違いである。アリが歩くという事象に、「餌を探し求めている」という目的を見い出せばこの事象は行為と捉えることができる。その一方で、餌を探し求めるのはアリ自身の目的ではなく、個体の生存と種の繁栄のために遺伝子にコーディングされたいわば外的な目的であると考えることもできる。この場合、アリ自身が目的(=意図)をもって歩いているとは言えず、アリが歩くのは反射ということになる。反射と行為の間に明確な境界線を設ける必要はなく、どの程度アニミズム的な解釈をするかによって、この線引きが変わってくるのは仕方ないかと思う。

哲学者の武器としての「意図」

このように考えると、疑いようもなく純粋な「行為」を行うことができるのは、人間だけだという気がしてくる。意図や目的を持って動作を行うのは人間の専売特許だと思われるからだ。

行為が意図の存在を前提とすることから、社会は行為者に対してある種の期待を持つようになる。意図が存在するゆえに、人間の行為は意図のもとで首尾一貫した、制御されたものとなる。行為が制御されているのであれば、社会的責任を行為者に認めてもいいと考えられる。そして、社会的責任が認められれば、それを基盤として懲罰についても議論することができる。

このように、行為の裏に意図の存在を認めることによって、人間の行為に社会の倫理というルールをあてがうことができるようになる。

社会の倫理は保たれた?

一部の哲学者は、人間が「意図」を持つ存在であることをとっかかりとして、このように社会の倫理を保とうとした。これは、意図が自由であるかどうかを追及しない限りはうまく機能するように思われる。

しかし、あとで述べるように、私には意志が自由でないのなら意図も自由でないように思われ、それゆえこの議論によって「責任」の概念が復活したというのは無理があるのではないかと思っている。

このことを述べる前に、次は哲学者の自由意志の復活にむけたアプローチを紹介していく。

 

 

意志とは

「意図」とは異なる概念として、「意志」というものがある。意図を「一連の動作全体の目的」とするのであれば、意志は、「ある生命体の個々の行動を決定する心の働き」と定義できる。この意志について、少し詳しく見てみよう。以下の3つの主張を見ていただきたい。

  1. 花びらには意志がない。
  2. アリには意志がない。
  3. 人間には意志がある。

1と3は、真偽については追々検討するが、一般的な直観では信じられていることだと思う。2については意見が分かれるかもしれない。アリには意志があるのだろうか。いったいどこに意志の境界線はあるのだろうか?

アリの意志

たとえば、アリが右に行くか左に行くかを決定するのは意志の働きなのだろうか。科学的には、アリはフェロモンの濃度勾配を触覚で感知して、自らの進行方向を決めている。右側の触覚の方がフェロモンを多く感知すれば右側にいくのだ。アリは、周りの物理的(または化学的)環境によって進行方向を決めているのである。

これを踏まえると、アリ自身が能動的に行き先を決めているという感じが乏しく、アリの行き先決定の裏に意志があると考えるのにはやや抵抗がある。

人間はどうだろう。たとえば人間のくしゃみは、ただ花粉やコショウが鼻に入ったための受動的な反射であり、そこに意志を読み取るのは難しい。ボウリングをしたり、人と話したり、ジャンケンでグーを出したりするのはどうだろうか。これについては、いかにも能動的に、主体的に決めている感じがして、これらの裏には意志が働いているような感じがする。

受動的か、能動的か

どうも、ある行動の裏に意志があると我々が感じるかどうかは、それが受動的か能動的かということにかかわっているように思われる。ここで、意志とは、「個々の行動を決定する能動的な心の働き」であると考えてみよう。

しかし、ここに一つの重大な問題が生じる。人は意志を能動的に生み出せるのだとしたら、その意志を生み出しているのはいったい何者なのだろうか?超自然的な存在を仮定しない限り、意志を生み出しているのは自分自身の意志以外にはありえないだろう。

これは決定的におかしい。意志を生み出すのが意志であるなら、その2番目の意志もまた、意志によって生み出されているはずである。これでは無限に意志が続いてしまう。ジャンケンでグーを出すために無限の意志の連鎖を仮定するのは馬鹿げている。

意志は能動的に生み出せない

ここまでの議論では、意志を能動的に生み出せると考えたために、意志の無限の連鎖を仮定する必要性が生じて、おかしなことになってしまった。であるならば、「意志は能動的に生み出せるものではない」と結論付けざるをえない。

能動的に生み出せないのであれば、意志は受動的に生起していると考えざるをえない。ジャンケンでグーを出すという心の動きは、受動的に生み出されたものだと考えざるをえないのだ。「心の動きが受動的に生み出される」というのがイマイチ直感的に分りにくいかもしれないが、過去のジャンケンの勝敗の経験や、「さいしょはグー」と言っているときの相手の手の形といった情報から、「グーを出そう」という心の働きないしニューロン発火が受動的に生成されていると言ってもいい。

「自由意志」の成立は厳しい

ここで述べた「意志が受動的に生成される」という考え方は、メカニズム決定論的な、脳を「ある入力に対して決まった演算を施し、おおむね一意的に出力を得る計算機」と捉える考え方とよく合致する。

そうであるならば、「意志」はメカニズム決定論の枠組みを免れ得ない。意志がメカニズム決定論の枠組みを出ないのであれば、「自由意志」の成立はかなり厳しいということになる。

 

 

物理学的な決定論

ここで、自由意志論においては必ずつきまとってくる、「物理学的な決定論」についても説明しておきたい。

物理学的な決定論とは、「この世は物理法則に支配されており、世界のある瞬間の全ての状態が分かれば、計算によって次の状態が導出できる。それゆえ世界は初めから決定している」という考え方だ。冒頭で紹介したメカニズム決定論を基礎づける考え方でもある。

古典力学的な決定論

ボールを投げたとする。そのボールは、放たれた瞬間の初速度と回転その他諸々の物理条件さえ決まっていれば、その後の運動は計算によって導出することができる。

人間の細胞を構成するタンパク質も、物理法則に従う物質だ。であるならば、その集合体である細胞、そしてその集合体である人間だって、物理法則に従うにきまっている。人間が物理法則に従うのならば、先ほどのボールと同じように、ある瞬間の人間とその周囲の状況が決まっていれば、その後のその人間の行動は計算によって導出できることになる。計算によって行動が導出できるのであれば、その人間には自分の行動を選択する余地はなかったのではないだろうか?

このように、古典力学的な決定論と自由意志は相容れないのだ。

ラプラスの悪魔

実際には、世界の全ての状態を把握できる人間なんていないので、こうしたことを考える場合には、全知全能の「ラプラスの悪魔」という存在を仮定する。宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる存在として「ラプラスの悪魔」を仮定すると、彼には未来は完全に予測できるという考え方だ。

量子論は非決定的な世界観を持つ

実は、古典力学よりもミクロな世界を扱える理論として20世紀に表れた量子論は、非決定的な世界観をもっている。

量子力学にはさまざまな解釈が存在するが、いずれにしても世界があらかじめ一通りに決定しているとは考えず(=非決定的)、確率的なふるまいをすると考える。これは、人間の計算能力の問題でなくて、世界そのものがそういう性質を持っているのだと考えられているのだ。

量子論は非決定的だが、自由意志を救出しない

しかし、量子論の確率的な世界観は、自由意志を救出しないと考えられている。なぜなら、世界が偶然で決まるか必然で決まるかということは、自由意志が働いているかどうかとは別の話だからだ。

自分がグーを出すかチョキを出すかが量子論的な確率によって決まっているのだとすれば、それは自分の自由意志によって決めたとはいえないのではないか。たとえ非決定的であるといっても、量子論的な確率は、自由意志の概念とは程遠いのだ。

 

 

意図は自由なのか?

ここまでで、「自由意志」の成立は厳しそうだということが分かっていただけたと思う。

それでは、初めに議論した「意図」についてはどうだろう。意図は自由なのだろうか?残念ながら、意志は自由ではないのに、意図は自由であるとする正当な理由を考えるのは至難の業だといえる。

意図は、比較的長い時間保持され、その間の意志を形作るものであると捉えることができる。それゆえ、脳の演算を仮定する際は、意志を出力するための入力の側として考えることが多く、そのためなんだか「もともとそこに存在していた」ような気がしてくる。しかし、そのことは「意図が脳の演算の外側に初めから存在する」ことを意味しない。意図だって、何らかの形で形成されたものに違いないのであり、そうであるならば脳の計算システムの呪縛を免れ得ないのだ。

このように考えると、自由意図を想定することも厳しいと考えられる。であるならば、自由ではない意図が制御した行為に対して、人はどれほどの責任を追うべきなのだろうか。

意図の存在を肯定したことで、社会の倫理は保たれたように見えたが、決して盤石とはいえないのである。

 

 

まとめ

自由意志論は非常に難しい問題で、本を読んだり自分の頭で考えたりしても、だんだん何がなんだかよくわからなくなってくる。

おそらく、予備知識無しでこの記事を読んで、すぐに書いてあることが全て分かる人はいないと思う。しかし、少しでも面白いと興味を持ってもらえ、たびたび振り返ってこのことを考えるようにしてもらえたなら、いずれこの問題の奥深さに気付いていただけると思う。

もし少しでも興味を持ってもらえたなら、

著:野矢茂樹

哲学の謎

この本の8章と9章がドンピシャでこの問題を扱っている。オムニバス形式になっているので、8章と9章だけを読んでも分かるようになっている。ぜひ手にとって本物の哲学者の言葉遣いでこの問題について読んでみてほしい。

*1:生物としては、異物を排除する目的があろうが、それは意識的な目的ではないため、本記事で扱うような話ではない。