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切ない「努力教」について。「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の最終意見陳述にちょっと共感してしまった。

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黒バス脅迫事件と最終意見陳述

「黒子のバスケ」脅迫事件は、大人気マンガ「黒子のバスケ」の関連イベント会場に脅迫文を送りつけまくる嫌がらせをした事件だ。リアルタイムで事件が連日報道されていたときは、「なんてくだらない事件なんだ…。」とぼくを含めほとんどの人が一笑に付していたと思う。

 

でも最近この記事

kamipro.com

を読んで、意外と冷静な自己分析だなぁと感心してしまった。長いんだけど、かなり文章がうまくて最後まで読めてしまう。2016年6月時点で9.1万シェアというすごいシェア数も納得。

 

努力教

で、上の記事は最終意見陳述の一部抜粋ということだったので、いろいろなサイトを巡ってその他の部分も読んでみた。そこで「努力教」という言葉が用いられていて、ちょっと共感してしまったので以下に紹介する。 

 

自分は拘置所の独居房で考えを巡らしました。そして、
「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」
という結論にたどり着きました。この「努力教」の教養は「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する」のこれだけです。中世の民の「全ては神の思し召しのまま」という世界観に似ています。言い換えれば「全ては努力の思し召しのまま」です。
恐らくほとんど全ての日本人がこの「努力教」の世界観を持っています。この「努力教信者」は努力という言葉を何にでも持ち出します。拘置所の収容者向けラジオから美空ひばりの曲をリクエストしたリスナーのメッセージとして「ひばりさんは天才のイメージがありますが、陰での努力たるや云々」とDJが読み上げるのが聞こえて来た時に自分は、
「美空ひばりすら努力の枠内に押し込めて語ろうとするのか。凄いご時世だな」
と思い、何とも言えない気分になりました。

かなりおおげさに書かれているにせよ、日本社会の中で「努力」が重んじられすぎているということには、とても共感できる。

 

成功=努力量が多い=えらい?

「イチローは天才ではない。努力の人だ。」といった場合、これはふつうに考えれば褒めていると捉えられる。日本には、「天才」よりも「努力の人」を評価する文化がある。「努力」するということそれ自体に価値を見出す。成功者と失敗者の違いを努力量のせいにしてしまう考え方が一般的だ。「だからあなたも頑張ればイチローみたいになれるかもしれない」と。そしてこれは、一見して美しく、また道徳的な考え方であるように見えるが、よくよく考えてみるととても残酷な一面も持っている。

なぜなら、そのような社会では、失敗した人はすなわち怠け者と考えられ、自己責任という大義名分のもとに、軽んじて扱うことが正当化されてしまうからだ。 

努力教のもとでは、低収入の人や、仕事のできない人は、「努力を怠ったダメ人間」というレッテルを貼られて、ただの上っ面の成功/失敗だけでなく、その内面まで見下されてしまうことがありえるのだ。「成功=努力量が多い=えらい」の反対の、「失敗=努力量が少ない=怠け者」も多くの人が信じてしまっていることなのだ。これって結構切なくないだろうか?

 

 

努力の力はそんなに大きくない

そもそも、努力というのは大した力を持っていない。これは、ぼくが常々思っていることだ。

松坂投手などは、「サボリのマツ」と呼ばれていたそうで、横浜高校時代はとにかく練習をサボっていたらしい。それでもあの出来だ。まあ、彼の本当の努力量は誰も知らないのだが…。でも、監督が堂々と「サボっていた」と公言するくらいだから、よほどサボっていたのだろう。

一方のぼくは、自分がいくら毎日朝から晩まで野球を練習したり筋トレをしたりしたとしても、球速100キロを超えるかどうかも怪しいと思う。

 

 

「努力は報われる」?

「努力は報われる」というのは、控えめにいっても善意のウソだ。報われない努力だって山程ある。「努力は報われるとは限らないが、成功者は例外なく努力している」というのも、誇張だ。松坂みたいに、大した努力もしないで甲子園で大活躍をしてしまうとんでもない才能もいるのだ。正しいのは、「努力は成功を保証しないが、正しい努力は大きな力を秘めている」ではないだろうか?

※初めは「努力は報われるとは限らないが、努力しないよりはマシだ」と書いていましたが、コメントを見てより良いものに訂正しました。

 

怠け者ではいけないのか

そもそも、怠け者だからって、どうして人に責められないといけないのだろうか。自分の人生、どれだけ頑張ろうと、どれだけ怠けようと、自分の勝手じゃないだろうか?人に努力を求めようというのは、人に不幸を求める心理と似ているようにぼくには見える。人に努力を求める人の中には、単純に善意のみの人もたくさんいるけれど、「オレはこんだけ頑張ったんだから、他人にもオレと同じだけの苦労を味わってほしい」という人も多くいるように見えるのだ。ぼくの心の目は汚れてしまっているのだろうか。

いずれにせよ、努力を崇拝することは、怠け者を軽んじて見ることにつながり、ぼくにはちょっと危ない考え方のように思われるのである。