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F Lab.

LIFE IS A PARTY

厚切りジェイソンのブログ:2か国語で綴る日常ネタが面白いし超勉強になる

英語

厚切りジェイソンといえば、

Why!? Japanese people!?

で一躍有名になったアメリカ出身の芸人さん。

実はIT企業の役員であったことも助けになってたちまち人気となり、本を出版するなど幅広く活躍している。

日本のみなさんにお伝えしたい48のWhy

 

彼が10日前(2016年6月27日)に始めたブログがこちら:

始めて10日しか経っていないのに、もう129記事と、当ブログの2倍近い記事数を誇る…。

 

そんな厚切りジェイソンオフィシャルブログが面白くて勉強になるので、個人的に面白かった記事を紹介し、その魅力を伝えていく。

 

 

『ブログ始めました』

神奈川県厚木市で嫁と娘二人(4才の長女、リサと1才の次女、アイリ)で暮らしています。ちなみに僕がいる時家では完全に英語で暮らしていますので、リサとの会話も英語になります。僕は居ない時日本語でママとのやりとりや幼稚園活動やっていることでバイリンガルに育ちます。

そして、同じ記事を日本語も英語も、両方書きます。直訳ではなく、同じ旨をNative英語でもお届けします。英語の勉強にもなるかと思いますので、是非英語でも挑戦してみてください!

 

「初めまして」の記事に書かれているとおり、厚切りジェイソンのブログは「育児×バイリンガル」ブログといえばもうほぼ言い表したも同然。

可愛いバイリンガル姉妹と、子育てに奮闘する厚切りジェイソンを見て癒やされながら、軽く英語も勉強できるというとっても有能なブログ。

 

 

『ピーナッツバターは遺伝子』

パパを見習ってアイリもいつもピーナッツバターを食べたい!と言っています。蛙の子は蛙はこういうことですかね。

Ailee learned from watching Daddy and is going through a peanut butter phase now. As they say, the apple doesn't fall far from the tree.

厚切りジェイソンのブログは基本こんな感じで、子供の可愛さに癒やされつつ英語を学べる一石二鳥ブログ。

"a peanut butter phase"「ピーナッツバター期」とは面白い表現!アメリカ人の子は誰しも、幼いときにピーナッツバターが大好物になる時期があるということか…?!

また、"the apple doesn't fall far from the tree"「蛙の子は蛙」ということわざもさり気なく学べる。

 

 

『そこ!?』

アイリが限界だったみたいです。布団まで後ちょっとだったのに。

It looks like Ailee reached her limit only a few steps away from bed.

この記事は画像が可愛すぎるのだけど、英語もかなり英語らしい味わい深い英文で、何度も音読したくなる。

awayをうまく使って一息で文を作り上げているところがネイティブの英文らしいポイントで、日本人が書けば

It looks like Ailee reached her limit, though she was only a few steps away from bed.

こんな風に冗長で説明的な文にしてしまいがち。

あと、bedが無冠詞なのが気になった。"go to bed"といった決まりきった表現ではbedはふつう無冠詞になるけれど、ここはぼくならher bedと書いてしまうが…?(←分かる方教えてください)

 

 

正しい投資のし方

子育てばかりでなく、たまにこういうマジメな記事を書いている。きっちりと数字のあるデータに基づいて分析されていて普通に参考になる。さすがIT企業役員。

また、タイトルの「し方」の表記が面白い。ふつう「仕方」か「しかた」とするが、

たぶん「愛する」→「愛し方」、「する」→「し方」というシステマティックな対応からこの表記にしているのだと思う。

また、はてなブロガーとしては、この記事だけ7はてブついて軽くバズっているのが草。はてな民、投資好きだなぁ…。

 

 

『リサとの喧嘩と叱り』

ここで前の出来事を忘れようとし、遊ぶことの方が楽だと分かりながら、「でも、パパが嫌だと言ったでしょう?なんで嫌だと言ったの?」と英語で聞きました。しばらく無言で嫌な顔をしていたけど、僕は目合わせたまま。すると数十秒後「ロープを投げた」と。「いや、投げていないよ。グルグル回る遊びしていて、たまたまぶつかっただけだよ。ぶつかれる前にずっと楽しかったでしょう?」と説明しました。「うん」「それでぶつかったのは痛かったのもわかるけど、人のせいにすると遊んでいる人が嫌な気持ちになり、一緒に遊びたくなくなるよ。次回はどうしますか?」とまだ目合わせたまま聞きます。しばらく無言で、また遊ぼうとしましたが、僕は「次の遊びする前に答えてください。次回同じこと起こったら代わりにどうしますか?考えてご覧」とまだ目合わせたまま。。。もうしばらくすると「人のせいにしない」と。「うん、いいと思う。じゃ、今回謝って遊びましょう」「ごめんなさい」「なんで?」。。。「パパのせいにしたから」と。頭を撫でて、次の遊びに。

娘さんの考える力を信じて、頭ごなしに叱らずに自分で考えさせるしつけ方。手間がかかりそうだけど、良さそうだし愛を感じる。

 

 

『鶏三羽、中へどうぞ』

チキン頼んだら凄いのは来ました。

I ordered a chicken and this monster came!

この英語で注目すべきは、"a chicken"!

原則、"a chicken"は、1羽まるまるの鶏を指す。

ぼくの英語バイブル「日本人の英語」にも、a chickenは「ある1羽の鶏」、chickenは「鶏肉」とはっきりと書いている。

先日、アメリカに留学している日本人の友だちから手紙がきたが、その中に次の文章がいきなり出てきた。

Last night, I ate a chicken in the backyard.(昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た。)

これをみたときの気持ちは非常に複雑で、なかなか日本語では説明できないが、ちょうどあてはまる英語の決まり文句でいえば、I didn't know whether to laugh or to cry.という気持ちであった。・・・

厚切りジェイソンはもちろん英語ネイティブなのでこの感覚は当然持っていて、鶏肉の大きさを表すためにあえてa chickenと冠詞を付けて大げさに言っているのだ。

ふつうに正しく言うなら、この画像を見る限りこの鶏肉は生きてもいなければ丸焼きでもないので、冠詞抜きでchickenと言うべきだ。

 

 

『寂しい・Feeling Lonely』

明日早くから生放送なので、今夜は都内のホテルに泊まります。リサとアイリに会えないのは寂しいです。

Tomorrow morning I have an early live broadcast so I am staying downtown tonight. It sure is lonely without the girls.

1日娘たちに会えないだけで寂しがる厚切りパパ。

この記事で面白い英語は、

It sure is lonely without the girls. 

まずは、lonelyの使い方。I'm so lonely I'm crying.「私は寂しくて泣いている。」のように、人間を主語にして使うことも当然できるが、ここではIt(娘達がいないという状況)を主語にして、It sure is lonelyと言っている(sureは「ほんとうに」の意味)。lonelyはこのように、環境や状況を主語にする使い方があるのだ。

さらに、自分の2人の娘を"the girls"という言い方も面白い。ここまでの文で、娘たちはまだ出てきていないので、ふつうに書けば"my daughters"と言うべきだ。しかしここでは、"the girls"と言っている。彼の精神世界では、単に"the girls"といえば娘たちなのであり、読者もそれを了解しているという前提にたった、この2単語で彼の親ばかさが分かる表現なのだ。

 

シンプルなのに奥深く、表現力のある英語にますます魅了される・・・。

 

 

厚切りブログの良いところ

  1. 癒される。
  2. たまに投資などの学べることがある。
  3. 良質で自然な英文に触れられる。

 

以ーー上!

【史上最高?】ジョコビッチの目の前にある大記録7つと、すでに達成した記録まとめ

テニス

 

 

ジョコビッチは、史上最高のテニス選手なのだろうか?少なくとも、そうした議論の対象となるにふさわしい選手であることは間違いない。

今回の記事では、ジョコビッチが達成しつつあるテニス界の大記録を紹介していく。これら全てを達成したとき、ジョコビッチは否定のしようのない史上最高の選手になるのだろう。この記事は随時更新していきます。

最終更新日:2016年8月14日

 

四大大会優勝回数

※四大大会とは、全豪、全仏、全英、全米オープンのこと。それぞれ年1回開催される。テニスのプロの大会の中でもっともレベルが高く、名誉ある4大会。

歴代最多優勝記録…ロジャー・フェデラーの17回

ジョコビッチは2016年8月14日現在、12回

最短での記録更新…2017年8月全米までの四大大会を全部優勝すると、フェデラーの17回に並ぶ。

 

世界ランク1位在位期間

歴代最長記録…ロジャー・フェデラーの302週。

ジョコビッチは2016年6月6日現在、202週。

最短での記録更新…2018年5月7日までATP世界ランク1位を維持すると、フェデラーの302週に並ぶ。

 

年間グランドスラム

※年間グランドスラムとは…同一年の四大大会を全て制覇すること。1938年のドン・バッジ、1962年のロッド・レーバーはオープン化以前なので参考記録。

歴代達成者…1938年ドン・バッジ、1962年&1969年ロッド・レーバーのみ

ジョコビッチは、2011年と2015年に全豪・全英・全米の3大会での優勝を果たしている。

2016年は、全英で3回戦敗退を喫したため、年間グランドスラム達成ならず。

全豪全仏全英全米
Cleared! Cleared! FAILED -

全米は8月末開催予定。

 

ゴールデンマスターズ

※ゴールデンマスターズとは…4大大会に次ぐ非常にレベルの高い大会であるATPマスターズ1000の9大会全てを生涯のうちに制覇すること。史上最高のオールラウンドプレイヤーと名高いフェデラーでさえ成し遂げられていない偉業。

歴代達成者…なし

ジョコビッチは、2016年8月15日~21日に開催されるシンシナティ・マスターズに優勝すれば、ゴールデン・マスターズを達成する。8月14日追記:ジョコビッチ、手首のケガの影響で、2016年のシンシナティ・マスターズ欠場を発表。そのため、ゴールデンマスターズ達成は2017年以降に持ち越しとなった。

 

 

年間ゴールデンスラム

※年間ゴールデンスラムとは…年内に四大大会+オリンピックの全てで優勝すること。単に「ゴールデンスラム」とも。

歴代達成者…なし(女子ではシュテフィ・グラフが1988年に達成)

ジョコビッチにとっては、オリンピックイヤーである2016年が達成のチャンスであったが、全英で3回戦敗退を喫し、またリオ五輪でも1回戦でデルポトロに敗れたため、年間ゴールデンスラム達成ならず。2020年はさすがに年齢的に厳しいと思われるため、ジョコビッチの年間ゴールデンスラム達成は難しいか。

全豪全仏全英リオ五輪全米
Cleared! Cleared! FAILED FAILED -

全米は8月末開催予定。

 

キャリアゴールデンスラム

歴代達成者…アンドレ・アガシ、ラファエル・ナダル

ジョコビッチが達成するには、あとオリンピックでの優勝のみが必要。2020年東京五輪に優勝しての達成が期待される。

※キャリアゴールデンスラムとは、生涯のうちに四大大会とオリンピックの全てで優勝すること。

 

四大大会連続優勝記録

歴代最多連続記録…1938年ドン・バッジ、1962年&1969年ロッド・レーバー、そして2016年ジョコビッチの4回。

ジョコビッチは単独最多となる5連続優勝が期待されていたが、2016年7月3日全英敗退のため単独最多の達成ならず。今後の記録更新が期待される。

※1938年ドン・バッジ、1962年ロッド・レーバーはオープン化以前なので参考記録。 

 

すでに達成した記録たち

生涯グランドスラム

※生涯グランドスラムとは…四大大会(全豪・全仏・全英・全米)全てで、生涯のうちに1回以上優勝すること。「キャリア・グランドスラム」ともいう。

2016年6月5日達成!

歴代達成者…ジョコビッチのほかに、ロジャー・フェデラーやラファエル・ナダルを含む8名。

 

四大大会4連続優勝 

2016年6月5日達成!

歴代達成者…1938年ドン・バッジ、1962年&1969年ロッド・レーバー(ただし、年間グランドスラムでもある)

※1938年のドン・バッジ、1962年のロッド・レーバーはオープン化以前なので参考記録。年間グランドスラムに似ているが、年内ではなく2年に跨って4連勝した場合のことを指す。ノン・カレンダー・イヤー・グランドスラムともいう。長いので、ジョコビッチは「ジョーカースラム」という呼び方を提案している。

 

マスターズ1000優勝回数記録

 選手名回数
1 ジョコビッチ 29
2 ナダル 28
3 フェデラー 24

歴代1位~3位を現役の選手が占めている。

 

 

以上が、ジョコビッチを史上最高の選手たらしめる(かもしれない)主な記録だ。いまは、フェデラー、ナダル、ジョコビッチという3人もの史上最高候補のテニス選手が揃って現役というおそろしい時代であるし、その時期に世界ランク4位まで上り詰めた錦織は本当に偉大な選手なのである。

 

高校教師は教科指導に専念させ、担任としては進路指導の専門家を雇うべき

考えたこと

日本の高校教師は、たとえば数学の先生であれば「数学の教科指導」+「担任」というように、教科指導以外の仕事を併せ持つことが一般的だ。

一方、アメリカでは担任は担任のためだけの先生がいるのが普通だ。詳しくは知らないが、ヨーロッパもそういう国が多いらしい。何でも欧米をマネすれば良いわけではないが、これに関してはマネすべきだとぼくは思っている。

勘違いされないように一応言っておくと、ぼくは教員ではない。ただこの問題を外から見ていてあまりに理不尽だと思い、筆をとった。社会に一石を投じようとまでは思わないが、多くの人がこの問題を認識してくれたらと思っている。

 

 

問題意識

教員がとにかく多忙であることと、生徒の進路指導が不十分であること。

この解決策として、担任(または進路指導職員)として社会人経験のある専門家を雇うことを提案する。具体的な内容や、問題意識の詳細については以下で述べる。

 

 

具体的な運用方法

いままで1人の教師が担っていた仕事を2人に分離する。

教科指導教員の仕事

教科の先生は教科指導のみを担当。

この仕事に従事するのは、教員免許を持っている人たち。

担任の仕事

進路指導やクラス統括。生活指導もいくらか割り振ってもいいかも。

従事者のイメージは定年後の元会社員とか。

 

この他、部活動専門のコーチも数を増やす必要があると思う。部活は積極的にやりたがる教員もいる一方、負担に感じている教員もかなり多いようだ。

 

 

担任の仕事の詳細

担任がどの業務を担うかというのはいろいろやり方があると思う。以下に挙げる仕事の中からいくつか担ってもらうのがいいと思う。

現状、以下の全てを教科指導の教員たちが分担してやっている。これを見るだけでも教員の業務量の多さが分かっていただけると思う。

生活指導

イジメ対応、制服等の規則のこと、生徒の校内掃除やゴミ出しの管理。

現在では生徒の心理面のサポートは、スクールカウンセラーという心理職専門の職員が入っている学校も多く、これについてはこのまま専門家に任せるのがいいと思われる。

行事の計画と実行

遠足・修学旅行・文化祭等の行事ごとの計画やしおり作成。

広報活動

中学校への説明会や高校のパンフレット作成等。

教務

時間割作成、その他教員の動き方の管理。

進路指導

生徒の進学相談や就職相談、あるいは大学や企業との調整・斡旋等。

 

これらのうち、生活指導や広報活動については、専門家ではない教科指導教員が受け持ってもいいと思うのだが、進路指導については絶対に専門家あるいは専任の職員が担当するのが望ましいと思う。

なぜなら、教員のほとんどは教員以外の職業に従事したことがなく、人生のほとんど全てを学校に通学・通勤して生きてきた人たちだ。このような特殊な人生を歩んできた人が、多様な生き方・考え方を指向する生徒たちの進路相談を請け負えるかというとどうしても限界があるのだ。

教員の業務負担の軽減という目的もあるが、それ以上に、生徒の人生を適切に導くという仕事が、一般社会で働いた経験に乏しい教科指導教員の手には負えないのではないかという懸念がある。

 

 

進路指導職員専門化の利点

教師にとってのメリット

業務負担の軽減。教員という職業は極めて多忙であるにもかかわらず、そもそも残業というシステムが存在しないがために、労働時間に応じた対価が支払われていない現状がある。部活動の顧問をしている教員は、年間で数日しか丸一日の休みがないというのも当たり前という現状なのだ。

熱心な教員はそれでもやりがいを感じてやっているようで、個人単位で納得しているのならそれはそれでかまわないが、システムとしては狂っていると言える。

定期テスト作成と採点の委託

また、話はずれるが、教科指導教員の一番の苦しみは定期テストの作成と採点だ。これについては予備校にテスト作成から採点まで一括して委託するのがいいと思う。教員が範囲を予備校に連絡するだけで予備校がテスト作成(から採点まで)をやってくれる仕組みにしてしまえばいい。

その分のお金はどこから出るのか、という人もいるかもしれないが、教員が家での自分の時間を割いてまで無償でやっている現状がおかしいのである。財源はどこかから工面して、きちんと教員の業務量を適正なレベルに持っていってあげるのが本来正しいやり方ではないだろうか。

 

生徒にとってのメリット

現状、高校生は、実際に働くというのがどういうことなのか知れる機会が圧倒的に少ない。身近に聞けるサンプルが、親と社会経験のない教員というのでは、将来を思い描くための材料が少なすぎるだろう。

高校生の頃から、いろいろな選択肢を実体験とともに聞くことで、それに向けて大学進学や就職について逆算して考えることができるようになる。

 

一般市民にとってのメリット

こうした施策は税金を支出することになるので、直接的にサービスに関わる人達(ここでは先生と生徒)だけでなく、一般社会にとっても有益である方がより望ましい。

近年、若年者の離職率が高いことが問題視されている。大卒新卒の3年以内離職率は30%を超えているそう。必ずしも離職することが悪いこととは言わないが、企業にとっては育成コストの無駄といえるし、働き手にとっても転職は膨大なエネルギーを消費する。であれば、初めから自分に合った職業に就けるよう、高校生のうちからいろいろな選択肢を知る機会を提供してあげることで、3年以内離職率を下げることができれば一般社会にとっても大きなメリットではないだろうか。

 

デメリットはコスト。 ただ、定年退職直後のまだまだ元気な働き手に有意義な仕事を提供しつつ、若者の将来もきちんと導けるので、かけるコストに十分見合う社会的な価値があると思う。

また、「教員は進路指導もやりたいはず」という意見もあるかもしれない。これについては、気持ちはわかるが、「やりたい」と「やるべき」は違う。いくらやりたがったとしても、彼の手に負えない仕事なのであれば彼に任せるべきではない。

 

まとめ

担任、特に進路指導の業務を教科指導教員から切り離し、社会人経験の豊富な専門家にこの任務を任せることで、教員、生徒、一般市民の全員にとってメリットになるのではというお話でした。

もちろん、多額の税金が必要になるのでその辺のコストパフォーマンスはきっちりと第三者の目で精査する必要があります。

公的サービスは費用対効果の数値化が難しくどうしても迷走しやすい性質がありますが、価値のあることにはきちんと適切な支出がなされることを望みます。

 

また、当然のことですが、アメリカは何でも優れているというわけではありません。アメリカは高校の先生の社会的地位が低くて、バイトと掛け持ちをしていたりといった負の側面もあります。冒頭で書いたとおり、マネすべき部分はマネしようという趣旨です。

意識は幻想なのか?自由意志の存在(とその否定)に対する、脳科学と哲学の論争のまとめ。

考えたこと

 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp

この記事が最近話題になっている。

そもそも、運動準備電位の研究は1980年のリベットによるものがある。リベットによって、

A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」

という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差があることが示されている。そしてBとCの間の0.2秒の間に、意識が運動を拒否する権利を持つことが示されている。

このリベットの実験の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされていることになる。そして、自由意志が唯一もつ権利として、BとCの間の0.2秒間の拒否権が示されている。冒頭のWIREDの記事で紹介されている実験では、リベットによって示されたBとCの間の「意識の拒否権」の実在が確かめられている。

しかし、この脳科学的実験の解釈は難しいところがある。BとCの間で自由意志は拒否権を持っているとリベットは解釈をしたが、その拒否でさえ、すでに無意識が決定したものが遅れてBとCの間で表れただけという可能性が十分あるからだ。このように解釈した場合、「自由意志はやっぱり何にも決定権を持っていないよね」という結論になってしまう。

後者の解釈のしかたは、受動意識仮説という考え方を徹底した場合のものである。受動意識仮説とは、人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。ぼく個人の意見としては、受動意識仮説はかなり直観に合う部分が多く、受動意識仮説を支持したいと考えている。

 

ここまでの部分は、自由意志論についての脳科学的アプローチである。

一方、自由意志というのは、生物学者よりも哲学者にとって非常に重大なテーマであり、哲学者によって長らく活発に議論されてきた。そして、哲学的論争の方がむしろ面白いとぼくは思っているので、今回の記事では、ぼくのできる範囲で、哲学における自由意志論について噛み砕いて紹介してみる。前提知識がなくても読めるよう極力配慮したので、付き合っていただければ幸いだ。

 

 

自由意志論とは

自由意志論とは、自由意志は存在するか否かを問う論議のこと。言い換えれば、人は自分の判断を主体的にコントールすることができるのか?という問いかけのことである。

 

 

自由意志は存在しない?

いまあなたはこの記事を読んでいる。この記事から離脱するかどうかは、あなたの自由だ。ふつうはそう考えるだろう。しかし、記事を読むか記事から離脱するかは、本当にあなたの意志で自由に選択できるのだろうか。あなたが記事を読み続けるかどうかは、自由意志によってではなく、物理的・化学的法則によって、あるいは自由意志を経ない無意識下の演算によって決定されているのではないだろうか。この問いは、何者でもないぼくのただの迷走的思考ではなくて、現に多くの哲学者を悩ませ続ける問題なのだ。

脳科学による挑戦状:「自由意志は存在しない」

冒頭で述べたことやその他の脳科学的な実験結果によって、「自由意志は存在しない」という立場は、ますます無視できない問題になってきている。

脳科学によると、脳はある一瞬における「内部的状態+外部の刺激」という入力に対し、ある計算を施して、その結果として、その次の瞬間における「内部的状態+外部環境への働きかけ」を出力している。脳をこのような計算機と考えれば、この計算は徹頭徹尾完成されており、自由意志がこの演算に入り込む余地はどこにもない。

これは、「メカニズム決定論」(戸田山和久「哲学入門)と呼ばれる決定論の一つだ。決定論とは、「世界はその前の瞬間の世界の状態のみによって決定される」というもの。ここで紹介した脳科学者による決定論は、脳のメカニズムから見た決定論なので、「メカニズム決定論」と呼ばれている。

哲学者の奮闘:「自由意志の復活」

脳科学による挑戦状は、かなり強力だ。しかし、自由意志の存在を認めないとなってしまうと、人の行動は彼自身の意識の制御下にないということをも意味しかねず、それでは責任や懲罰といった概念が揺らぎ始め、社会の倫理が崩壊する可能性がある。それゆえ、哲学者はどのようにして自由意志を復活させるか、あるいは社会の倫理を保つかということに頭を悩ませてきた。私の考えでは、哲学者は自由意志を復活させることに未だに成功していない

この記事では、哲学者たちの自由意志復活に向けた試みを紹介し、自分の考えについても軽く触れようと思う。

 

 

社会の倫理(責任)の復活

自由意志の前に、まずは、いかにして哲学者が責任という概念を復活させようと奮闘したかを書き記す。

出来事、反射、行為

まず、少し遠回りなようだが、出来事、反射(または反応)、行為という3分類について考えてみよう。次の5つの事象を、出来事、反射、行為に分けてみてほしい。

  1. 花びらが落ちること。
  2. アリが死ぬこと。
  3. アリが歩くこと。
  4. 人間のくしゃみ。
  5. 人間がジャンケンでグーを選ぶこと。

私の直観による分類では、1と2は出来事、3と4は反射、5は行為に分類される。それほどおかしな分類ではないと思う。もしかすると、3を行為と考える人も多いかもしれない。この相違はどこからくるのだろう。以下ではこの疑問に答えながら、私の考える出来事、反射、行為という3分類の境界線について説明する。

動物の神経系統の働きの有無

まずは、出来事と反射の違いについて。端的に言って、出来事と反射の違いというのは、その事象が動物の神経系統(主に脳)の働きを経て生まれたものかどうかによる。

花びらが落ちるのは、神経系統を経ていないので出来事。一方、アリが動くのは、何らかの刺激によってアリの神経系統から足に対して「動け」という命令が出されて動くのであり、こういうのを反射と呼ぶ。アリが死ぬのは、アリ自身の神経系統からの命令によるものではないので、反射ではなく出来事である。

意図の有無

次に、反射と行為の違いについて。これらの違いは、意図(=目的)の有無による。

くしゃみには目的はない*1一方、ジャンケンでグーを選ぶことには、「勝つ」という目的(=意図)がある。

先ほど、3の「アリが歩くこと」を私は反射に分類したが、これを行為と捉える人もいるかもしれないと述べた。この差異は、アリが歩くという事象に目的を見出すかどうかという違いである。アリが歩くという事象に、「餌を探し求めている」という目的を見い出せばこの事象は行為と捉えることができる。その一方で、餌を探し求めるのはアリ自身の目的ではなく、個体の生存と種の繁栄のために遺伝子にコーディングされたいわば外的な目的であると考えることもできる。この場合、アリ自身が目的(=意図)をもって歩いているとは言えず、アリが歩くのは反射ということになる。反射と行為の間に明確な境界線を設ける必要はなく、どの程度アニミズム的な解釈をするかによって、この線引きが変わってくるのは仕方ないかと思う。

哲学者の武器としての「意図」

このように考えると、疑いようもなく純粋な「行為」を行うことができるのは、人間だけだという気がしてくる。意図や目的を持って動作を行うのは人間の専売特許だと思われるからだ。

行為が意図の存在を前提とすることから、社会は行為者に対してある種の期待を持つようになる。意図が存在するゆえに、人間の行為は意図のもとで首尾一貫した、制御されたものとなる。行為が制御されているのであれば、社会的責任を行為者に認めてもいいと考えられる。そして、社会的責任が認められれば、それを基盤として懲罰についても議論することができる。

このように、行為の裏に意図の存在を認めることによって、人間の行為に社会の倫理というルールをあてがうことができるようになる。

社会の倫理は保たれた?

一部の哲学者は、人間が「意図」を持つ存在であることをとっかかりとして、このように社会の倫理を保とうとした。これは、意図が自由であるかどうかを追及しない限りはうまく機能するように思われる。

しかし、あとで述べるように、私には意志が自由でないのなら意図も自由でないように思われ、それゆえこの議論によって「責任」の概念が復活したというのは無理があるのではないかと思っている。

このことを述べる前に、次は哲学者の自由意志の復活にむけたアプローチを紹介していく。

 

 

意志とは

「意図」とは異なる概念として、「意志」というものがある。意図を「一連の動作全体の目的」とするのであれば、意志は、「ある生命体の個々の行動を決定する心の働き」と定義できる。この意志について、少し詳しく見てみよう。以下の3つの主張を見ていただきたい。

  1. 花びらには意志がない。
  2. アリには意志がない。
  3. 人間には意志がある。

1と3は、真偽については追々検討するが、一般的な直観では信じられていることだと思う。2については意見が分かれるかもしれない。アリには意志があるのだろうか。いったいどこに意志の境界線はあるのだろうか?

アリの意志

たとえば、アリが右に行くか左に行くかを決定するのは意志の働きなのだろうか。科学的には、アリはフェロモンの濃度勾配を触覚で感知して、自らの進行方向を決めている。右側の触覚の方がフェロモンを多く感知すれば右側にいくのだ。アリは、周りの物理的(または化学的)環境によって進行方向を決めているのである。

これを踏まえると、アリ自身が能動的に行き先を決めているという感じが乏しく、アリの行き先決定の裏に意志があると考えるのにはやや抵抗がある。

人間はどうだろう。たとえば人間のくしゃみは、ただ花粉やコショウが鼻に入ったための受動的な反射であり、そこに意志を読み取るのは難しい。ボウリングをしたり、人と話したり、ジャンケンでグーを出したりするのはどうだろうか。これについては、いかにも能動的に、主体的に決めている感じがして、これらの裏には意志が働いているような感じがする。

受動的か、能動的か

どうも、ある行動の裏に意志があると我々が感じるかどうかは、それが受動的か能動的かということにかかわっているように思われる。ここで、意志とは、「個々の行動を決定する能動的な心の働き」であると考えてみよう。

しかし、ここに一つの重大な問題が生じる。人は意志を能動的に生み出せるのだとしたら、その意志を生み出しているのはいったい何者なのだろうか?超自然的な存在を仮定しない限り、意志を生み出しているのは自分自身の意志以外にはありえないだろう。

これは決定的におかしい。意志を生み出すのが意志であるなら、その2番目の意志もまた、意志によって生み出されているはずである。これでは無限に意志が続いてしまう。ジャンケンでグーを出すために無限の意志の連鎖を仮定するのは馬鹿げている。

意志は能動的に生み出せない

ここまでの議論では、意志を能動的に生み出せると考えたために、意志の無限の連鎖を仮定する必要性が生じて、おかしなことになってしまった。であるならば、「意志は能動的に生み出せるものではない」と結論付けざるをえない。

能動的に生み出せないのであれば、意志は受動的に生起していると考えざるをえない。ジャンケンでグーを出すという心の動きは、受動的に生み出されたものだと考えざるをえないのだ。「心の動きが受動的に生み出される」というのがイマイチ直感的に分りにくいかもしれないが、過去のジャンケンの勝敗の経験や、「さいしょはグー」と言っているときの相手の手の形といった情報から、「グーを出そう」という心の働きないしニューロン発火が受動的に生成されていると言ってもいい。

「自由意志」の成立は厳しい

ここで述べた「意志が受動的に生成される」という考え方は、メカニズム決定論的な、脳を「ある入力に対して決まった演算を施し、おおむね一意的に出力を得る計算機」と捉える考え方とよく合致する。

そうであるならば、「意志」はメカニズム決定論の枠組みを免れ得ない。意志がメカニズム決定論の枠組みを出ないのであれば、「自由意志」の成立はかなり厳しいということになる。

 

 

物理学的な決定論

ここで、自由意志論においては必ずつきまとってくる、「物理学的な決定論」についても説明しておきたい。

物理学的な決定論とは、「この世は物理法則に支配されており、世界のある瞬間の全ての状態が分かれば、計算によって次の状態が導出できる。それゆえ世界は初めから決定している」という考え方だ。冒頭で紹介したメカニズム決定論を基礎づける考え方でもある。

古典力学的な決定論

ボールを投げたとする。そのボールは、放たれた瞬間の初速度と回転その他諸々の物理条件さえ決まっていれば、その後の運動は計算によって導出することができる。

人間の細胞を構成するタンパク質も、物理法則に従う物質だ。であるならば、その集合体である細胞、そしてその集合体である人間だって、物理法則に従うにきまっている。人間が物理法則に従うのならば、先ほどのボールと同じように、ある瞬間の人間とその周囲の状況が決まっていれば、その後のその人間の行動は計算によって導出できることになる。計算によって行動が導出できるのであれば、その人間には自分の行動を選択する余地はなかったのではないだろうか?

このように、古典力学的な決定論と自由意志は相容れないのだ。

ラプラスの悪魔

実際には、世界の全ての状態を把握できる人間なんていないので、こうしたことを考える場合には、全知全能の「ラプラスの悪魔」という存在を仮定する。宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる存在として「ラプラスの悪魔」を仮定すると、彼には未来は完全に予測できるという考え方だ。

量子論は非決定的な世界観を持つ

実は、古典力学よりもミクロな世界を扱える理論として20世紀に表れた量子論は、非決定的な世界観をもっている。

量子力学にはさまざまな解釈が存在するが、いずれにしても世界があらかじめ一通りに決定しているとは考えず(=非決定的)、確率的なふるまいをすると考える。これは、人間の計算能力の問題でなくて、世界そのものがそういう性質を持っているのだと考えられているのだ。

量子論は非決定的だが、自由意志を救出しない

しかし、量子論の確率的な世界観は、自由意志を救出しないと考えられている。なぜなら、世界が偶然で決まるか必然で決まるかということは、自由意志が働いているかどうかとは別の話だからだ。

自分がグーを出すかチョキを出すかが量子論的な確率によって決まっているのだとすれば、それは自分の自由意志によって決めたとはいえないのではないか。たとえ非決定的であるといっても、量子論的な確率は、自由意志の概念とは程遠いのだ。

 

 

意図は自由なのか?

ここまでで、「自由意志」の成立は厳しそうだということが分かっていただけたと思う。

それでは、初めに議論した「意図」についてはどうだろう。意図は自由なのだろうか?残念ながら、意志は自由ではないのに、意図は自由であるとする正当な理由を考えるのは至難の業だといえる。

意図は、比較的長い時間保持され、その間の意志を形作るものであると捉えることができる。それゆえ、脳の演算を仮定する際は、意志を出力するための入力の側として考えることが多く、そのためなんだか「もともとそこに存在していた」ような気がしてくる。しかし、そのことは「意図が脳の演算の外側に初めから存在する」ことを意味しない。意図だって、何らかの形で形成されたものに違いないのであり、そうであるならば脳の計算システムの呪縛を免れ得ないのだ。

このように考えると、自由意図を想定することも厳しいと考えられる。であるならば、自由ではない意図が制御した行為に対して、人はどれほどの責任を追うべきなのだろうか。

意図の存在を肯定したことで、社会の倫理は保たれたように見えたが、決して盤石とはいえないのである。

 

 

まとめ

自由意志論は非常に難しい問題で、本を読んだり自分の頭で考えたりしても、だんだん何がなんだかよくわからなくなってくる。

おそらく、予備知識無しでこの記事を読んで、すぐに書いてあることが全て分かる人はいないと思う。しかし、少しでも面白いと興味を持ってもらえ、たびたび振り返ってこのことを考えるようにしてもらえたなら、いずれこの問題の奥深さに気付いていただけると思う。

もし少しでも興味を持ってもらえたなら、

著:野矢茂樹

哲学の謎

この本の8章と9章がドンピシャでこの問題を扱っている。オムニバス形式になっているので、8章と9章だけを読んでも分かるようになっている。ぜひ手にとって本物の哲学者の言葉遣いでこの問題について読んでみてほしい。

*1:生物としては、異物を排除する目的があろうが、それは意識的な目的ではないため、本記事で扱うような話ではない。

切ない「努力教」について。「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の最終意見陳述にちょっと共感してしまった。

考えたこと

黒バス脅迫事件と最終意見陳述

「黒子のバスケ」脅迫事件は、大人気マンガ「黒子のバスケ」の関連イベント会場に脅迫文を送りつけまくる嫌がらせをした事件だ。リアルタイムで事件が連日報道されていたときは、「なんてくだらない事件なんだ…。」とぼくを含めほとんどの人が一笑に付していたと思う。

 

でも最近この記事

kamipro.com

を読んで、意外と冷静な自己分析だなぁと感心してしまった。長いんだけど、かなり文章がうまくて最後まで読めてしまう。2016年6月時点で9.1万シェアというすごいシェア数も納得。

 

努力教

で、上の記事は最終意見陳述の一部抜粋ということだったので、いろいろなサイトを巡ってその他の部分も読んでみた。そこで「努力教」という言葉が用いられていて、ちょっと共感してしまったので以下に紹介する。 

 

自分は拘置所の独居房で考えを巡らしました。そして、
「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」
という結論にたどり着きました。この「努力教」の教養は「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する」のこれだけです。中世の民の「全ては神の思し召しのまま」という世界観に似ています。言い換えれば「全ては努力の思し召しのまま」です。
恐らくほとんど全ての日本人がこの「努力教」の世界観を持っています。この「努力教信者」は努力という言葉を何にでも持ち出します。拘置所の収容者向けラジオから美空ひばりの曲をリクエストしたリスナーのメッセージとして「ひばりさんは天才のイメージがありますが、陰での努力たるや云々」とDJが読み上げるのが聞こえて来た時に自分は、
「美空ひばりすら努力の枠内に押し込めて語ろうとするのか。凄いご時世だな」
と思い、何とも言えない気分になりました。

かなりおおげさに書かれているにせよ、日本社会の中で「努力」が重んじられすぎているということには、とても共感できる。

 

成功=努力量が多い=えらい?

「イチローは天才ではない。努力の人だ。」といった場合、これはふつうに考えれば褒めていると捉えられる。日本には、「天才」よりも「努力の人」を評価する文化がある。「努力」するということそれ自体に価値を見出す。成功者と失敗者の違いを努力量のせいにしてしまう考え方が一般的だ。「だからあなたも頑張ればイチローみたいになれるかもしれない」と。そしてこれは、一見して美しく、また道徳的な考え方であるように見えるが、よくよく考えてみるととても残酷な一面も持っている。

なぜなら、そのような社会では、失敗した人はすなわち怠け者と考えられ、自己責任という大義名分のもとに、軽んじて扱うことが正当化されてしまうからだ。 

努力教のもとでは、低収入の人や、仕事のできない人は、「努力を怠ったダメ人間」というレッテルを貼られて、ただの上っ面の成功/失敗だけでなく、その内面まで見下されてしまうことがありえるのだ。「成功=努力量が多い=えらい」の反対の、「失敗=努力量が少ない=怠け者」も多くの人が信じてしまっていることなのだ。これって結構切なくないだろうか?

 

 

努力の力はそんなに大きくない

そもそも、努力というのは大した力を持っていない。これは、ぼくが常々思っていることだ。

松坂投手などは、「サボリのマツ」と呼ばれていたそうで、横浜高校時代はとにかく練習をサボっていたらしい。それでもあの出来だ。まあ、彼の本当の努力量は誰も知らないのだが…。でも、監督が堂々と「サボっていた」と公言するくらいだから、よほどサボっていたのだろう。

一方のぼくは、自分がいくら毎日朝から晩まで野球を練習したり筋トレをしたりしたとしても、球速100キロを超えるかどうかも怪しいと思う。

 

 

「努力は報われる」?

「努力は報われる」というのは、控えめにいっても善意のウソだ。報われない努力だって山程ある。「努力は報われるとは限らないが、成功者は例外なく努力している」というのも、誇張だ。松坂みたいに、大した努力もしないで甲子園で大活躍をしてしまうとんでもない才能もいるのだ。正しいのは、「努力は成功を保証しないが、正しい努力は大きな力を秘めている」ではないだろうか?

※初めは「努力は報われるとは限らないが、努力しないよりはマシだ」と書いていましたが、コメントを見てより良いものに訂正しました。

 

怠け者ではいけないのか

そもそも、怠け者だからって、どうして人に責められないといけないのだろうか。自分の人生、どれだけ頑張ろうと、どれだけ怠けようと、自分の勝手じゃないだろうか?人に努力を求めようというのは、人に不幸を求める心理と似ているようにぼくには見える。人に努力を求める人の中には、単純に善意のみの人もたくさんいるけれど、「オレはこんだけ頑張ったんだから、他人にもオレと同じだけの苦労を味わってほしい」という人も多くいるように見えるのだ。ぼくの心の目は汚れてしまっているのだろうか。

いずれにせよ、努力を崇拝することは、怠け者を軽んじて見ることにつながり、ぼくにはちょっと危ない考え方のように思われるのである。