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LIFE IS A PARTY

意識は幻想なのか?自由意志の存在(とその否定)に対する、脳科学と哲学の論争のまとめ。

 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp

この記事が最近話題になっている。

自由意志は存在するのだろうか。簡単に言えば、「人間は、本当に自分の行動を自分の意志で自由に決定しているのだろうか」、という問いかけである。こういうことを考えたことが無い人は、自由意志はあるに決まってるんじゃないの、と思うかもしれないが、実は、そうではないかもしれないのである。

そもそも、上記記事の発端となるのは、1980年のリベットによる「運動準備電位」の研究である。リベットは、人間が腕を動かそうと意志し、腕が動くまでの過程を、電気的に測定した。その結果、

A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」

という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差があることが示された。リベットはこの実験により、BとCの間の0.2秒の間に、意識が運動を拒否する権利を持つと理解した。

このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされていることになる。そして、自由意志が唯一もつ権利として、BとCの間の0.2秒間の拒否権が示されている。冒頭のWIREDの記事で紹介されている実験では、リベットによって示されたBとCの間の「意識の拒否権」の実在が確かめられている。

しかし、この脳科学的実験の解釈は難しいところがある。BとCの間で自由意志は拒否権を持っているとリベットは解釈をしたが、その拒否でさえ、すでに無意識が決定したものが遅れてBとCの間で表れただけという可能性が十分あるからだ。このように解釈した場合、「自由意志はやっぱり何にも決定権を持っていないよね」という結論になってしまう。

後者の解釈のしかたは、受動意識仮説という考え方を徹底した場合のものである。受動意識仮説とは、人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。ぼく個人の意見としては、受動意識仮説はかなり直観に合う部分が多く、受動意識仮説を支持したいと考えている。

 

ここまでの部分は、自由意志論についての脳科学的アプローチである。

一方、自由意志というのは、生物学者よりも哲学者にとって非常に重大なテーマであり、哲学者によって長らく活発に議論されてきた。そして、哲学的論争の方がむしろ面白いとぼくは思っているので、今回の記事では、ぼくのできる範囲で、哲学における自由意志論について噛み砕いて紹介してみる。前提知識がなくても読めるよう極力配慮したので、付き合っていただければ幸いだ。

 

 

自由意志論とは

自由意志論とは、自由意志は存在するか否かを問う論議のこと。言い換えれば、人は自分の判断を主体的にコントールすることができるのか?という問いかけのことである。

 

 

自由意志は存在しない?

いまあなたはこの記事を読んでいる。この記事から離脱するかどうかは、あなたの自由だ。ふつうはそう考えるだろう。しかし、記事を読むか記事から離脱するかは、本当にあなたの意志で自由に選択できるのだろうか。あなたが記事を読み続けるかどうかは、自由意志によってではなく、物理的・化学的法則によって、あるいは自由意志を経ない無意識下の演算によって決定されているのではないだろうか。この問いは、何者でもないぼくのただの迷走的思考ではなくて、現に多くの哲学者を悩ませ続ける問題なのだ。

脳科学による挑戦状:「自由意志は存在しない」

冒頭で述べたことやその他の脳科学的な実験結果によって、「自由意志は存在しない」という立場は、ますます無視できない問題になってきている。

脳科学によると、脳はある一瞬における「内部的状態+外部の刺激」という入力に対し、ある計算を施して、その結果として、その次の瞬間における「内部的状態+外部環境への働きかけ」を出力している。脳をこのような計算機と考えれば、この計算は徹頭徹尾完成されており、自由意志がこの演算に入り込む余地はどこにもない。

これは、「メカニズム決定論」(戸田山和久「哲学入門)と呼ばれる決定論の一つだ。決定論とは、「世界はその前の瞬間の世界の状態のみによって決定される」というもの。ここで紹介した脳科学者による決定論は、脳のメカニズムから見た決定論なので、「メカニズム決定論」と呼ばれている。

哲学者の奮闘:「自由意志の復活」

脳科学による挑戦状は、かなり強力だ。しかし、自由意志の存在を認めないとなってしまうと、人の行動は彼自身の意識の制御下にないということをも意味しかねず、それでは責任や懲罰といった概念が揺らぎ始め、社会の倫理が崩壊する可能性がある。それゆえ、哲学者はどのようにして自由意志を復活させるか、あるいは社会の倫理を保つかということに頭を悩ませてきた。私の考えでは、哲学者は自由意志を復活させることに未だに成功していない

この記事では、哲学者たちの自由意志復活に向けた試みを紹介し、自分の考えについても軽く触れようと思う。

 

 

社会の倫理(責任)の復活

自由意志の前に、まずは、いかにして哲学者が責任という概念を復活させようと奮闘したかを書き記す。

出来事、反射、行為

まず、少し遠回りなようだが、出来事、反射(または反応)、行為という3分類について考えてみよう。次の5つの事象を、出来事、反射、行為に分けてみてほしい。

  1. 花びらが落ちること。
  2. アリが死ぬこと。
  3. アリが歩くこと。
  4. 人間のくしゃみ。
  5. 人間がジャンケンでグーを選ぶこと。

私の直観による分類では、1と2は出来事、3と4は反射、5は行為に分類される。それほどおかしな分類ではないと思う。もしかすると、3を行為と考える人も多いかもしれない。この相違はどこからくるのだろう。以下ではこの疑問に答えながら、私の考える出来事、反射、行為という3分類の境界線について説明する。

動物の神経系統の働きの有無

まずは、出来事と反射の違いについて。端的に言って、出来事と反射の違いというのは、その事象が動物の神経系統(主に脳)の働きを経て生まれたものかどうかによる。

花びらが落ちるのは、神経系統を経ていないので出来事。一方、アリが動くのは、何らかの刺激によってアリの神経系統から足に対して「動け」という命令が出されて動くのであり、こういうのを反射と呼ぶ。アリが死ぬのは、アリ自身の神経系統からの命令によるものではないので、反射ではなく出来事である。

意図の有無

次に、反射と行為の違いについて。これらの違いは、意図(=目的)の有無による。

くしゃみには目的はない*1一方、ジャンケンでグーを選ぶことには、「勝つ」という目的(=意図)がある。

先ほど、3の「アリが歩くこと」を私は反射に分類したが、これを行為と捉える人もいるかもしれないと述べた。この差異は、アリが歩くという事象に目的を見出すかどうかという違いである。アリが歩くという事象に、「餌を探し求めている」という目的を見い出せばこの事象は行為と捉えることができる。その一方で、餌を探し求めるのはアリ自身の目的ではなく、個体の生存と種の繁栄のために遺伝子にコーディングされたいわば外的な目的であると考えることもできる。この場合、アリ自身が目的(=意図)をもって歩いているとは言えず、アリが歩くのは反射ということになる。反射と行為の間に明確な境界線を設ける必要はなく、どの程度アニミズム的な解釈をするかによって、この線引きが変わってくるのは仕方ないかと思う。

哲学者の武器としての「意図」

このように考えると、疑いようもなく純粋な「行為」を行うことができるのは、人間だけだという気がしてくる。意図や目的を持って動作を行うのは人間の専売特許だと思われるからだ。

行為が意図の存在を前提とすることから、社会は行為者に対してある種の期待を持つようになる。意図が存在するゆえに、人間の行為は意図のもとで首尾一貫した、制御されたものとなる。行為が制御されているのであれば、社会的責任を行為者に認めてもいいと考えられる。そして、社会的責任が認められれば、それを基盤として懲罰についても議論することができる。

このように、行為の裏に意図の存在を認めることによって、人間の行為に社会の倫理というルールをあてがうことができるようになる。

社会の倫理は保たれた?

一部の哲学者は、人間が「意図」を持つ存在であることをとっかかりとして、このように社会の倫理を保とうとした。これは、意図が自由であるかどうかを追及しない限りはうまく機能するように思われる。

しかし、あとで述べるように、私には意志が自由でないのなら意図も自由でないように思われ、それゆえこの議論によって「責任」の概念が復活したというのは無理があるのではないかと思っている。

このことを述べる前に、次は哲学者の自由意志の復活にむけたアプローチを紹介していく。

 

 

意志とは

「意図」とは異なる概念として、「意志」というものがある。意図を「一連の動作全体の目的」とするのであれば、意志は、「ある生命体の個々の行動を決定する心の働き」と定義できる。この意志について、少し詳しく見てみよう。以下の3つの主張を見ていただきたい。

  1. 花びらには意志がない。
  2. アリには意志がない。
  3. 人間には意志がある。

1と3は、真偽については追々検討するが、一般的な直観では信じられていることだと思う。2については意見が分かれるかもしれない。アリには意志があるのだろうか。いったいどこに意志の境界線はあるのだろうか?

アリの意志

たとえば、アリが右に行くか左に行くかを決定するのは意志の働きなのだろうか。科学的には、アリはフェロモンの濃度勾配を触覚で感知して、自らの進行方向を決めている。右側の触覚の方がフェロモンを多く感知すれば右側にいくのだ。アリは、周りの物理的(または化学的)環境によって進行方向を決めているのである。

これを踏まえると、アリ自身が能動的に行き先を決めているという感じが乏しく、アリの行き先決定の裏に意志があると考えるのにはやや抵抗がある。

人間はどうだろう。たとえば人間のくしゃみは、ただ花粉やコショウが鼻に入ったための受動的な反射であり、そこに意志を読み取るのは難しい。ボウリングをしたり、人と話したり、ジャンケンでグーを出したりするのはどうだろうか。これについては、いかにも能動的に、主体的に決めている感じがして、これらの裏には意志が働いているような感じがする。

受動的か、能動的か

どうも、ある行動の裏に意志があると我々が感じるかどうかは、それが受動的か能動的かということにかかわっているように思われる。ここで、意志とは、「個々の行動を決定する能動的な心の働き」であると考えてみよう。

しかし、ここに一つの重大な問題が生じる。人は意志を能動的に生み出せるのだとしたら、その意志を生み出しているのはいったい何者なのだろうか?超自然的な存在を仮定しない限り、意志を生み出しているのは自分自身の意志以外にはありえないだろう。

これは決定的におかしい。意志を生み出すのが意志であるなら、その2番目の意志もまた、意志によって生み出されているはずである。これでは無限に意志が続いてしまう。ジャンケンでグーを出すために無限の意志の連鎖を仮定するのは馬鹿げている。

意志は能動的に生み出せない

ここまでの議論では、意志を能動的に生み出せると考えたために、意志の無限の連鎖を仮定する必要性が生じて、おかしなことになってしまった。であるならば、「意志は能動的に生み出せるものではない」と結論付けざるをえない。

能動的に生み出せないのであれば、意志は受動的に生起していると考えざるをえない。ジャンケンでグーを出すという心の動きは、受動的に生み出されたものだと考えざるをえないのだ。「心の動きが受動的に生み出される」というのがイマイチ直感的に分りにくいかもしれないが、過去のジャンケンの勝敗の経験や、「さいしょはグー」と言っているときの相手の手の形といった情報から、「グーを出そう」という心の働きないしニューロン発火が受動的に生成されていると言ってもいい。

「自由意志」の成立は厳しい

ここで述べた「意志が受動的に生成される」という考え方は、メカニズム決定論的な、脳を「ある入力に対して決まった演算を施し、おおむね一意的に出力を得る計算機」と捉える考え方とよく合致する。

そうであるならば、「意志」はメカニズム決定論の枠組みを免れ得ない。意志がメカニズム決定論の枠組みを出ないのであれば、「自由意志」の成立はかなり厳しいということになる。

 

 

物理学的な決定論

ここで、自由意志論においては必ずつきまとってくる、「物理学的な決定論」についても説明しておきたい。

物理学的な決定論とは、「この世は物理法則に支配されており、世界のある瞬間の全ての状態が分かれば、計算によって次の状態が導出できる。それゆえ世界は初めから決定している」という考え方だ。冒頭で紹介したメカニズム決定論を基礎づける考え方でもある。

古典力学的な決定論

ボールを投げたとする。そのボールは、放たれた瞬間の初速度と回転その他諸々の物理条件さえ決まっていれば、その後の運動は計算によって導出することができる。

人間の細胞を構成するタンパク質も、物理法則に従う物質だ。であるならば、その集合体である細胞、そしてその集合体である人間だって、物理法則に従うにきまっている。人間が物理法則に従うのならば、先ほどのボールと同じように、ある瞬間の人間とその周囲の状況が決まっていれば、その後のその人間の行動は計算によって導出できることになる。計算によって行動が導出できるのであれば、その人間には自分の行動を選択する余地はなかったのではないだろうか?

このように、古典力学的な決定論と自由意志は相容れないのだ。

ラプラスの悪魔

実際には、世界の全ての状態を把握できる人間なんていないので、こうしたことを考える場合には、全知全能の「ラプラスの悪魔」という存在を仮定する。宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる存在として「ラプラスの悪魔」を仮定すると、彼には未来は完全に予測できるという考え方だ。

量子論は非決定的な世界観を持つ

実は、古典力学よりもミクロな世界を扱える理論として20世紀に表れた量子論は、非決定的な世界観をもっている。

量子力学にはさまざまな解釈が存在するが、いずれにしても世界があらかじめ一通りに決定しているとは考えず(=非決定的)、確率的なふるまいをすると考える。これは、人間の計算能力の問題でなくて、世界そのものがそういう性質を持っているのだと考えられているのだ。

量子論は非決定的だが、自由意志を救出しない

しかし、量子論の確率的な世界観は、自由意志を救出しないと考えられている。なぜなら、世界が偶然で決まるか必然で決まるかということは、自由意志が働いているかどうかとは別の話だからだ。

自分がグーを出すかチョキを出すかが量子論的な確率によって決まっているのだとすれば、それは自分の自由意志によって決めたとはいえないのではないか。たとえ非決定的であるといっても、量子論的な確率は、自由意志の概念とは程遠いのだ。

 

 

意図は自由なのか?

ここまでで、「自由意志」の成立は厳しそうだということが分かっていただけたと思う。

それでは、初めに議論した「意図」についてはどうだろう。意図は自由なのだろうか?残念ながら、意志は自由ではないのに、意図は自由であるとする正当な理由を考えるのは至難の業だといえる。

意図は、比較的長い時間保持され、その間の意志を形作るものであると捉えることができる。それゆえ、脳の演算を仮定する際は、意志を出力するための入力の側として考えることが多く、そのためなんだか「もともとそこに存在していた」ような気がしてくる。しかし、そのことは「意図が脳の演算の外側に初めから存在する」ことを意味しない。意図だって、何らかの形で形成されたものに違いないのであり、そうであるならば脳の計算システムの呪縛を免れ得ないのだ。

このように考えると、自由意図を想定することも厳しいと考えられる。であるならば、自由ではない意図が制御した行為に対して、人はどれほどの責任を追うべきなのだろうか。

意図の存在を肯定したことで、社会の倫理は保たれたように見えたが、決して盤石とはいえないのである。

 

 

まとめ

自由意志論は非常に難しい問題で、本を読んだり自分の頭で考えたりしても、だんだん何がなんだかよくわからなくなってくる。

おそらく、予備知識無しでこの記事を読んで、すぐに書いてあることが全て分かる人はいないと思う。しかし、少しでも面白いと興味を持ってもらえ、たびたび振り返ってこのことを考えるようにしてもらえたなら、いずれこの問題の奥深さに気付いていただけると思う。

もし少しでも興味を持ってもらえたなら、

著:野矢茂樹

哲学の謎

この本の8章と9章がドンピシャでこの問題を扱っている。オムニバス形式になっているので、8章と9章だけを読んでも分かるようになっている。ぜひ手にとって本物の哲学者の言葉遣いでこの問題について読んでみてほしい。

*1:生物としては、異物を排除する目的があろうが、それは意識的な目的ではないため、本記事で扱うような話ではない。

切ない「努力教」について。「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の最終意見陳述にちょっと共感してしまった。

黒バス脅迫事件と最終意見陳述

「黒子のバスケ」脅迫事件は、大人気マンガ「黒子のバスケ」の関連イベント会場に脅迫文を送りつけまくる嫌がらせをした事件だ。リアルタイムで事件が連日報道されていたときは、「なんてくだらない事件なんだ…。」とぼくを含めほとんどの人が一笑に付していたと思う。

 

でも最近この記事

kamipro.com

を読んで、意外と冷静な自己分析だなぁと感心してしまった。長いんだけど、かなり文章がうまくて最後まで読めてしまう。2016年6月時点で9.1万シェアというすごいシェア数も納得。

 

努力教

で、上の記事は最終意見陳述の一部抜粋ということだったので、いろいろなサイトを巡ってその他の部分も読んでみた。そこで「努力教」という言葉が用いられていて、ちょっと共感してしまったので以下に紹介する。 

 

自分は拘置所の独居房で考えを巡らしました。そして、
「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」
という結論にたどり着きました。この「努力教」の教養は「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する」のこれだけです。中世の民の「全ては神の思し召しのまま」という世界観に似ています。言い換えれば「全ては努力の思し召しのまま」です。
恐らくほとんど全ての日本人がこの「努力教」の世界観を持っています。この「努力教信者」は努力という言葉を何にでも持ち出します。拘置所の収容者向けラジオから美空ひばりの曲をリクエストしたリスナーのメッセージとして「ひばりさんは天才のイメージがありますが、陰での努力たるや云々」とDJが読み上げるのが聞こえて来た時に自分は、
「美空ひばりすら努力の枠内に押し込めて語ろうとするのか。凄いご時世だな」
と思い、何とも言えない気分になりました。

かなりおおげさに書かれているにせよ、日本社会の中で「努力」が重んじられすぎているということには、とても共感できる。

 

成功=努力量が多い=えらい?

「イチローは天才ではない。努力の人だ。」といった場合、これはふつうに考えれば褒めていると捉えられる。日本には、「天才」よりも「努力の人」を評価する文化がある。「努力」するということそれ自体に価値を見出す。成功者と失敗者の違いを努力量のせいにしてしまう考え方が一般的だ。「だからあなたも頑張ればイチローみたいになれるかもしれない」と。そしてこれは、一見して美しく、また道徳的な考え方であるように見えるが、よくよく考えてみるととても残酷な一面も持っている。

なぜなら、そのような社会では、失敗した人はすなわち怠け者と考えられ、自己責任という大義名分のもとに、軽んじて扱うことが正当化されてしまうからだ。 

努力教のもとでは、低収入の人や、仕事のできない人は、「努力を怠ったダメ人間」というレッテルを貼られて、ただの上っ面の成功/失敗だけでなく、その内面まで見下されてしまうことがありえるのだ。「成功=努力量が多い=えらい」の反対の、「失敗=努力量が少ない=怠け者」も多くの人が信じてしまっていることなのだ。これって結構切なくないだろうか?

 

 

努力の力はそんなに大きくない

そもそも、努力というのは大した力を持っていない。これは、ぼくが常々思っていることだ。

松坂投手などは、「サボリのマツ」と呼ばれていたそうで、横浜高校時代はとにかく練習をサボっていたらしい。それでもあの出来だ。まあ、彼の本当の努力量は誰も知らないのだが…。でも、監督が堂々と「サボっていた」と公言するくらいだから、よほどサボっていたのだろう。

一方のぼくは、自分がいくら毎日朝から晩まで野球を練習したり筋トレをしたりしたとしても、球速100キロを超えるかどうかも怪しいと思う。

 

 

「努力は報われる」?

「努力は報われる」というのは、控えめにいっても善意のウソだ。報われない努力だって山程ある。「努力は報われるとは限らないが、成功者は例外なく努力している」というのも、誇張だ。松坂みたいに、大した努力もしないで甲子園で大活躍をしてしまうとんでもない才能もいるのだ。正しいのは、「努力は成功を保証しないが、正しい努力は大きな力を秘めている」ではないだろうか?

※初めは「努力は報われるとは限らないが、努力しないよりはマシだ」と書いていましたが、コメントを見てより良いものに訂正しました。

 

怠け者ではいけないのか

そもそも、怠け者だからって、どうして人に責められないといけないのだろうか。自分の人生、どれだけ頑張ろうと、どれだけ怠けようと、自分の勝手じゃないだろうか?人に努力を求めようというのは、人に不幸を求める心理と似ているようにぼくには見える。人に努力を求める人の中には、単純に善意のみの人もたくさんいるけれど、「オレはこんだけ頑張ったんだから、他人にもオレと同じだけの苦労を味わってほしい」という人も多くいるように見えるのだ。ぼくの心の目は汚れてしまっているのだろうか。

いずれにせよ、努力を崇拝することは、怠け者を軽んじて見ることにつながり、ぼくにはちょっと危ない考え方のように思われるのである。

新型うつは甘え?仮病?現代若者の病を紹介し、永遠の難題に挑む。

どうも、精神病にかかったことのないなまぱんです。「新型うつ」について、以下のツイートが気になりました。

※ワロリンスさんは、「これ見るだけだと…」と言っていて、本当は新型うつの奥にはもっといろいろあるというのは含んだ上でのツイートだと察せられます

ぼく自身は健常者の視点しか持っていないので、どうしても健常者寄りの視点になってしまう部分があると思いますが、できる限り感情論を排して新型うつについて紹介してみます。そして、「病気なのか、そうではないのか」「甘えなのか、そうではないのか」という永遠の難題に挑みます。現役うつ病患者の方も、「だから病気だって言ってんだろ」と言わずに読み進めていただければ幸いです。

 

 

新型うつとは

「新型うつ」の特徴

従来型のうつに比べ、以下のような特徴を持つとされる。

  1. 若者に多く、全体的に軽症。
  2. 気分反応性がある。つまり、嫌なこと(仕事など)に直面すれば気分が落ち込むが、楽しいこと(遊びなど)に直面すれば楽しく過ごせる。
  3. 仕事や学業上の困難をきっかけに発症する(軽度のPTSDと診断されることも)。
  4. 病前性格として、「成熟度が低く、規範や秩序あるいは他者への配慮に乏しい」などが指摘される。
  5. 「うつ病」と診断されることを望み、また、他人に「うつ病」を告白することに積極的。
  6. 抗うつ薬の効果が弱いことが多い。

参考:うつ病Q&A非定型うつ病の原因と発症しやすい傾向について等。

このように特徴を並べてみると、確かに「甘え」「仮病」と非難されても仕方なさそうなラインナップである。特に2の気分反応性が批判の的となりやすい。新型うつの人は「仕事を休んで飲み会で騒ぐ」ということができてしまうので、よほど好意的に接しようとしない限りは「甘え」と解釈してしまうのは全く不思議なことではない。

 

「新型うつ」 =「非定型うつ病」

メディアでは、一般的に「新型うつ」という呼び方が用いられる。この呼び方を用いる場合、「若者の甘えによる妄想である」と断罪するような文脈であることが多い。一方、医学会では「非定型うつ病」と呼ばれており、この名称で学問的にもしっかりと議論されているようだ。メディアによる「新型うつ」という言葉は、しっかりとした定義をされずに用いられているので、「新型うつ」=「非定型うつ病」と断言することはできないが、実際には同じまたはほとんど同じと捉えている人が多い。

「新型うつ」という呼称には悪意がこもっていて扱いづらいので、ここから先は「非定型うつ病」という呼称を用いる。ちなみに、「新型うつ」は俗称であって病名ではないので、新型うつとは呼ばないことが推奨される。

 

非定型うつ病の診断基準

非定型うつ病の診断には世界保健機構(WHO)によるICD-10とアメリカ精神医学会によるDSM-5が広く用いられているが、DSM-5の方が分かりやすいのでこちらを紹介する。

DSM-5では、以下のように非定型うつ病の診断が2段階に分けて行われる。

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1段階目で「うつ」であることを判定し、2段階目で「非定型」であることを判定するという形。

1段階目の診断基準(=「うつ」のチェック)
  1. ほとんど1日中・毎日の抑うつ気分。青年ではイライラした気分のことも。
  2. ほとんど1日中・毎日の、ほとんどすべての活動における興味・喜びの著しい減退
  3. 著しい体重減少・増加(1か月で5%以上)、または食欲減少・増加
  4. ほとんど毎日の不眠または睡眠過剰
  5. ほとんど毎日の精神からくる焦燥または制止
  6. ほとんど毎日の疲れやすさ、または気力の減退
  7. ほとんど毎日の無価値観、罪責感
  8. ほとんど毎日の思考力や集中力の減退、または決断困難
  9. 死についての反復思考

参考:DSM-5 Depressive

「これらの症状のうち5つ以上(1か2のどちらかは必須)が同一の2週間のうちに存在」し、かつ、

「著しい苦痛または社会的・職業的な障害を引き起こしている」

場合、うつ病であると診断される。

このチェック基準は、定型うつの診断にも用いられるものなので、非定型うつ病の症状とはやや異なる特徴も多い(2, 7, 8などは非定型うつ病では認められないことも多い。また、1の抑うつ気分は、非定型うつ病では1日中ではないことが一般的)。

2段階目の診断基準(=「非定型」のチェック)
  1. 有意の体重増加または食欲増加
  2. 過眠
  3. 手足が麻痺し、鉛のように重く感じる感覚(鉛様の麻痺)
  4. 長期的に、人に拒否されることに敏感で、そのことが社会的または職業的な障害を引き起こしている

「これら1~4の症状のうち2つ以上に該当」し、かつ「気分の反応性(楽しいことは楽しく過ごせる)」があり、しかも「他のうつではない」場合、非定型うつ病の診断となる。

 

 

非定型うつ病は病気?それとも甘え?

前置きが長くなった。そろそろ結論を言ってしまおう。

私の考えでは、非定型うつ病は「もともとちょっと塞ぎ込みやすい性格を持つ人が、何かをきっかけに強烈に塞ぎ込んでしまい、手がつけづらくなった」状態だ。また、そんな自分も社会に認めてもらいたいという欲求をもつ場合も多い。そして、非定型うつ病では「自分に甘い」面が顕在化しているが、この甘さは非定型うつ病の原因ではなく結果であると捉えるのが適切である。

※もう少し定義っぽくするなら、「患者自身が先天的に持つ、あるいは後天的に培った、外的要因により著しく塞ぎ込みやすい性向。また、それがあるきっかけのもとに顕在化し、暴走した状態。またそのことを人に理解され、許し、認めてもらいたい欲求のある状態」と言いかえてみよう。

そして、これを病気と呼びたいのであれば病気と呼んでもいいが、典型的な病気とは異なる側面を持つと考える。

太字部分について、それぞれ以下で詳しく説明する。

 

非定型うつ病の人はもともと塞ぎ込みやすい人

本人が自覚しているかどうかにかかわらず、非定型うつ病になる人は塞ぎ込み・落ち込みやすい性格を持つ。これはPTSDと比較してみれば、そう考えざるをえないと分かる。

PTSDと非定型うつ病は症状が酷似している。そのため、非定型うつ病とPTSDの区別は、症状よりはきっかけによるところが大きいようだ。たとえば戦争などの、誰が見ても強烈な体験を経て精神がやられた場合には、PTSDの診断を受ける*1。裏を返せば、非定型うつ病のきっかけというのは戦争ほど強烈な体験ではなく、「気にしない人は気にしない」レベルの事案なのだ。よって、非定型うつ病になる人は、「もともと落ち込みやすい性格を持つ」といえる。少なくとも、「強靭なメンタルを持つわけではない」とは言えるだろう。

 

非定型うつ病は甘えか?

「仕事のときだけ抑うつ状態」(気分反応性)というのが、健常の人から見るととても都合よく見える。そしてこれが「非定型うつ病は甘え」と言われる一番の要因だ。

「仕事をしているなら誰でも辛いことや悩みはある。みんな我慢しているんだ。それを『辛い。もうやだ。仕事したくない。動けない』といって仕事をサボっておきながら、飲み会には参加して楽しく過ごせるなんて、甘え以外の何だというのか」

これが健常の人の感じ方だ。

しかし…ちょっとだけ想像力を働かせてみてほしい。

非定型うつ病のAさんは、健常のあなたより、ちょっと落ち込みやすいのだ。だから、同じ仕事をしていて、同じように上司に叱られても、Aさんはあなたよりも、ぐっと辛い思いをしている。それが積み重なって、家に帰ってもふとしたことで辛い思いを思い出して焦燥感に駆られたり不安になったりするようになる。これがずっと続き、ついには仕事に行けないようになる。これほど辛い思いをしているとき、人はどうなるだろう?まずは自分を責めるはずだ。自分はなんてダメなやつなんだ。自分で自分を押しつぶしてしまいそうになる。仕事には行けない。仕事に行くと、また責められて辛くて潰れてしまうかもしれない。仕事に行かなくても、思い出して辛くて潰れてしまいそうだ。せめて飲み会に行ったり、友達に会ったりして、何とかして辛い思いを忘れたい…。

非定型うつ病のAさんは、こういう精神状態に置かれているのだ(多分)。ここから分かるように、Aさんは非定型うつ病を患った結果として、表面上自分に甘い行動をとってしまっているのだ。「自分に甘いのが原因で、その結果として仕事には行かず飲み会には行く」のではない。「辛い気持ちで潰されそうになる→仕事に行けず、娯楽で忘れるしかない→結果、表面上甘えているように見える」という流れなのだ。

健常のあなたは、Aさんからその唯一の逃げ道さえも奪いたいというのだろうか?

 

非定型うつ病を病気と呼ぶか否か?

実は、ある症状を病気と呼ぶか否かというのは、それほど本質的な問題ではない。たとえば、医学会の重鎮が「インフルエンザは病気ではありません」と宣言したとしよう。この宣言はいったいどういう意味をもつのだろう?現実に、高熱と関節痛と頭痛で苦しんでいる人がいることに違いはない。これを病気とラベリングするかどうかによって変わるのは、その人に対する社会の対応である。たとえば、保険適応になったり、学校を休めたりする。でも、インフルエンザが病気だろうとそうじゃなかろうと、インフルエンザの苦しさは一つも変わらないのである。

非定型うつ病についても同じで、これを病気とラベリングするかどうかによって変わるのは、社会の対応である。病気なら多少は会社を休みやすくなるだろうし、本人の意識も和らいだりするだろう。ただ、これが病気とラベリングされようとそうじゃなかろうと、本人が抱える症状は一つも変わらないのである。

 

病気であると認められることは、社会的に得

ここで一つ触れておくべきことは、病気であると認められることは社会的には得になることが多いということだ。たとえば、毎晩8時になると体が勝手に踊り出す人がいたとしよう。こいつは、ふつうに考えればただの奇人である。しかし、ひとたびこれが病気と認められれば、この人は非常にかわいそうな人に見えてくる。それに、保険の範囲で治療してもらえるようにもなるかもしれないし、夜8時前に退社させてもらえるかもしれない。同じ症状でも、「病気」と認められることは得なのだ。

明確な境界線がない

また、インフルエンザと非定型うつ病の一つの違いにも触れておこう。インフルエンザは、ウイルス検査をすればはっきりとインフルエンザかそうではないかが分かる。一方、非定型うつ病は、客観的な根拠に基いて明確な線引をすることができない。

「明確な境界線がないうえに、病気と認められれば得」なのであれば、非定型うつ病ではないのに、それを自称するやつも現れてくるのは当然のことだろう。そして、そういうやつに限って、声高に権利や自らの不幸な境遇を騒ぎたてるだろう。このことは、本当に非定型うつ病で苦しむ人の居場所をなくすことになるだろう。

医者も病気と診断したい

精神科医の立場にたってみても、自分の患者が増えるのはビジネスチャンスが増えることなので、何でもない症状を「非定型うつ病です」と診断することは、金銭的には得なのだ。メタボだのなんだの、予備軍ですとかなんとかいって自分の治療対象を増やすというのは、どの分野の医者もよくやっていることだ。

こうして考えると、「非定型うつ病」の診断は、医者にとっても患者にとってもwin-winなのである。これでは、非定型うつ病もどきが増幅し、うさんくさいイメージが定着し、社会的信頼が地に堕ちるのも必然の結果である。

 

「新型うつは甘え」と断罪する健常者へ

まとめに代えて。

もしあなたが「新型うつは甘え」と判断したとしても、そのような立場を言明するのは賢明ではない。どんな理由であっても人を傷付けるのはオススメできないし、そうした言動はあなたが狭量であることを人に見せつけることにもなる。

ぼくはずぶとい性格なので、これからもうつ病になることは多分一生ない。それでも、うつの人と接するときは、疑いではなく理解の目を向けるよう意識していきたい。

*1:非定型うつ病の一部は軽度のPTSDであると考える人もいる

英語不規則動詞の暗記をちょっとだけ楽にするグループ分け

英語不規則動詞の覚え方

英語の不規則動詞は、全く不規則というわけではない。原形の時点で似ている動詞は、似たような活用をする。こういうのをまとめて覚えておくと、暗記量が減って勉強の効率がよくなる。

英語が得意な人は不規則動詞のリストを眺めた瞬間にこういうことに気付くのだけど、なかなか気付けない人も結構いるのでそういう人のために覚えておくといいグループを軽くまとめておく。

 

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映画の本質に迫る!芸術的で美しい歴代名作映画ランキングベスト50作品。

「狂気」と「芸術」

大学時代ゲオの近くに住んで1日3~5本の映画を見続けたぼくによると、映画の本質は狂気と芸術だ。監督の狂った才能を映画という形に昇華すると、それが芸術となって表れる。

時には娯楽映画もいい。映画を見て「元気になった!」「学んだ!」と実益を求めるのもいい。ただ、本当に映画に向き合うというのは、そういうことではない。本物の映画に対面するとき、人は圧倒され、黙り込み、静かに興奮する。

この記事では、そうした真の「映画体験」を与えてくれる芸術的な作品たちを紹介する。どれも人生で一度は絶対に観るべき映画。ぼくが魂を揺さぶられた厳選の50作品だ。

 

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